「伝播メディアは機械情報の伝達を担うメディアである。成果メディアは機械情報から社会情報を、さらに社会情報から生命情報を生み出す、と言いますか、考えを及ばせると言いますか、心の中に作り出すメディアである。」この文章は正しいでしょうか。質問者 「 松の木先生」さん |
回答 仰っしゃりたいことの趣旨は解らなくもありませんが…、忖度せずに文章を読むと間違っていると言わざるを得ません。 |
解説・説明
断言せず、混乱した日本語になっていることから、質問者さんも自身も文章に問題があることにお気づきのようです。基礎情報学の中でも成果メディアはかなり抽象的で非常に難しい概念です。当たり前のことですが、不鮮明なイメージをルーズに言葉にすると破綻します。なので伝道師は、納得できる理解が進むまで成果メディアの機能については言及しないようにしていました。つまりまあ、逃げていた訳です(笑)。
まずは些末なことから。2つのセンテンスがバランスが良くありません。1つ目のセンテンスは基礎情報学の定義に近くまあ良いでしょう。ただ、この1つ目のセンテンスにおける伝播メディアに対して成果メディアを述べるとするならば、「成果メディアは社会情報の伝達を担うメディアである」とすべきですね。さらに厳密性を考えるならば「伝播メディアは機械情報を物理的に媒介する機能であり、成果メディアは社会情報を論理的/感性的に媒介する機能である」となるでしょう。ただこれでは基礎情報学の定義通りなので質問にならないですね(笑)。
日本語として違和感のもう一つ。通常、1センテンスに同じ言葉が重複することは避けた方が無難です。特に今回の「〇〇メディアは…メディアである」はトートロジー(メディア=メディア)になりかねません。伝道師も、かつて本の執筆した際に編集者から指摘され、それ以降気をつけるようにしています。ご参考まで。
さて、ここからが本題の2つ目のセンテンスについてです。まず、情報の3概念の包括関係を考えると「機械情報から社会情報を生み出す」や「社会情報から生命情報を生み出す」という表現は間違っています。「社会情報⊇機械情報」ですから機械情報は既に社会情報です。よって、機械情報から社会情報が生み出されるようなことはありません。これは「生命情報⊇社会情報」という包括関係の社会情報と生命情報にも当てはまります。なお、生命情報は広義の情報なので、生み出されるすべての情報は必ず生命情報ということになります。社会情報だけ、または機械情報だけ、という情報は存在しません。
また、人は(ブレインマシンインターフェイスを持たない限り)五感を通じてしか外界を知ることはできませんから、どんな機械情報も生命情報として受け取る(生命情報に含まれる機械情報を受け取る)しかありません。つまり、受け手としての成果メディアの対象は機械情報に限ったことではなく、社会情報の記号部のみや生命情報も含まれます。芸術や文学のことをちょっと考えれば、生命情報が受け手としての成果メディアの対象となっていることは明白です。
質問の文章は、要約すると「成果メディアは心の中に、社会情報、生命情報及び考えを作り出す」となるでしょう。成果メディアの定義にある「論理的/感性的に媒介する機能」をなんとなく(極めてルーズに)解釈されたようです。しかし、先に書いたとおり成果メディアは社会情報や生命情報を(間接的な効果はあるとしても)直接生み出すことはありません。なので質問の文章から社会情報と生命情報を除くと「成果メディアは心の中に考えを作り出す」となります。そういうこともあるかも知れません。しかし、考えを思考と見なすならば「成果メディアは思考を作り出す」となり、明らかに飛躍した解釈になってしまいます。また、数式から具体的な算術方法を導くのは成果メディア(ルーマン的には学問-数学システムですね)ですが、この過程を「考え」というのもちょっと変です。別に考えて導かなくでも、知っていれば(知識があれば)よいのですから。では成果メディアは受け手の機能として何を作り出す機能なのでしょう。それは意味です。ただ、意味そのものを作り出すというよりは、「意味の候補集合(意味ベース)から妥当ものを選択(限定)する」と捉えるべきでしょう。
心的システムはオートポイエティック・システムなので恣意的(好き勝手、身勝手)に意味を構築してしまいます。このため、たとえ同じ機械情報を知覚したとしても、人により異なった意味が構築されてしまい、その結果擬似的な意味内容の伝達もできなくなってしまいます。そこで、恣意的な意味構築に制限(拘束)を掛け、意味の絞り込みをする必要が出てきます。この意味内容の絞り込みの役割を担っているのが成果メディアなのです。成果メディアを、心的システムが作り出す多種多様な意味の中から、その場のコミュニケーションに合わせて適切な意味を選択する機能と捉えれば、数式から具体的な算術方法への導きも納得できるのではないでしょうか。ちなみにこの数式場合、論理的な媒介機能に該当することもお分かりのことと思います。
質問者さんは、機械情報が成果メディアを通して生命情報に何かしらの影響を及ぼすことを示したかったのではないか、と伝道師は推測しています(忖度してま〜す)。この考え方の方向性は間違っていないでしょう。ここまで受け手側としての成果メディアを説明してきましたが、送り手側の機能もあります。例えば、人が自身の生命情報を社会情報として発信するときは、送り手側としての成果メディアが機能しています。これが上手く機能させることで、自身の状態(例えば病状など)を相手により正確に伝達する可能性を高めています(擬似的ですから100%正確はありえません)。この外界への送り手側の機能を内向きにも作用するとすれば、成果メディアが自身の生命情報を生成するような形になるでしょう。しかし、成果メディアにそのような機能は含まれていません。確かに成果メディアが構築(限定)した意味をきっかけに、生命情報が生み出されることは大いに考えられます。例えば、凄惨な状況を描写した文章を読むことによって、吐き気など身体に不調が生じる(生命情報の発生)ようなことはあり得るでしょう。しかしその一方、情動など無意識レベルでの認知により(成果メディアの機能とは関係なく)生命情報が生成される場合もあります。なので、生命情報生成に対する社会情報の影響はあるとは思いますが、その原因として成果メディアを引っ張り出すのは間違いです。「成果メディアは、コミュニケーションによる擬似的な意味内容の伝達を可能にし、この作用によって社会システムと心的システムを接続する機能(非対称な構造的カップリング)である」というのが基礎情報学のスタンスですので、無意識を含む(心的システムに含まれない)生命情報に対する機能はありません。
以上のことから2つ目のセンテンスを書き直すと「成果メディアの受け手としての機能は、機械情報から社会情報としての意味を意識の中で構築(限定)している。この機能は、意味内容の擬似的な伝達の可能性を高めることに利用されている。また、意識の中で意味が確定されることによって間接的に生命情報の発生を促すこともありうる。」とするのが良いでしょう。
最後に。成果メディアがあってこその忖度である!(笑)。